クロイロ

「しょーとこんとぉー!! 記憶喪失風に目覚めるけどいたって普通の人!」
こいつは朝から何を言ってるんだ。
「う……ここはどこだ? たしかあの時布団を被って……それからの記憶がない」
「…」
「どう? 今日急に思いついたんやけど」
「お前朝ずっとこんな感じでいくつもりなのか?」
四月九日午前六時半。
「ほーらぁー! 朝よー! 早く降りて来なさーい!」
寮長の声が寮中に響き渡る。すごい声量だ。
「俺は本来この声で起こされるはずなんだが」
「早く起きれてしかもギャグ聞けるとかお得やん、よかったな」
「何も良くないからこうやって文句垂れてるんだよ」
朝に弱い俺にとって、阪田の騒ぎ方はもはや災厄だ。



episode 4
訪問



四月九日午前七時。
朝ごはんも食べ終わり、学校にいく準備を始めるころだ。
「今日俺朝練見学しにいくけどトウも来おへんか?」
「部活には興味ないからな、遠慮する」
「探したら黒魔術部とかあるかもしれへんで? 好きやろ?」
「だからあれは昔のことだ! 中二病だったころの話はお願いだからやめてくれ!」
これ以上掘り返されると死にたくなる。
「まあええや、先行っとくしな、道迷わんときや。地図いるなら俺の机の一段目にあるしな」
「余計なお世話だ」
そうは言いながらも、阪田の寄り道対策に地図を鞄に潜ませた。



午前八時二十分。
入学して間もないということもあり、大抵の新入生たちは楽しそうに通学路を歩いている。ただ、その中になにか憂鬱そうに下を向いて歩く少年が一人。彼、一色塔だ。
「学校いきたくねー。
中二病だと教室中に伝わった昨日。痛い目で見られるのは確実だ。そんなところに誰が好き好んで行くんだ。寝て忘れた昨日の感覚がよみがえる。ああ、どうせ俺は高校の三年間を惨めに過ごすんだ。昨日まで新鮮に感じていた開閉する蓋のついた靴箱は、黒ずんだ錆が目立って見え、開けるのも億劫だ。靴箱から淀んだ空気が流れ出てくる気がする。
靴を掴んだとき、何かが指先に触れた。なんだこれ? 紙? 何かのいたずらか? 中二病を馬鹿にするやつらが入れたものかもしれない」
ちなみに、ここまで彼は小声でぶつぶつと呟いている。まともな精神状況ではなかったのだ。しかし、その紙らしきものを靴箱から取り出して彼の目の前に持ってくると、彼の精神状況は急激に回復、というよりかは異常な興奮状態になった。
薄桃色の封筒。洋封筒。宛名には縮こまったかわいい字で"一色くんへ"と書いてある。
突然の衝撃に彼の体は大きくのけぞり、後ろの靴箱にもたれかかる。頭は急回転を始め、熱を持ち、そして彼は一つの可能性に思い当たった。
ラブレター!? ラブレターなのか? Love letter!?
fromの文字の横には、"鐵 蓮子"と書いてある。
そして真下には小さく脚注。
"※鐵は「くろがね」ってよみます。"
くろがね、黒い金属、つまり鉄のことだ。重々しい意味を持つ漢字だ。しかし…
「鐵。素敵な苗字じゃないか。苗字だけじゃない。一言一句の言い回しも、脚注の書き方も、どこを漢字にしているかも、文字の配置の仕方も、この封筒を選ぶ感性も、全てが愛らしい。そして、この世界も、この手紙も、それを入れてた靴箱も、全てがすばらしい」
さっきとは違い、独り言は大きくなっていた。なんとなく危なそうな空気を感じた周りの学生は、一色を避けて足早に通り過ぎる。
「いや、落ち着け、落ち着け、落ち着け、おちつけ、まだそうと決まったわけじゃない。何か業務の連絡かもしれない。っていうか今時手紙でとかないよね。ほら、鐵ってただ珍しいだけの苗字だから、ただの。そう、こんなの普通の手紙だよ。きっとそう。そう思うよね」
熱暴走を始めた脳は相手がいないという致命的な欠陥を持った会話を始めた。
「いやあ、うん、そうかも、そうかもしれないからな、ちゃんと中身は確認しないと。ふふ、喜んでちゃいけないなあ、もう」
小声で呟くその口は、言葉とは裏腹に大きく大きく笑顔を作っている。痛々しく見えることは誰から見ても明らかだが、そのとき彼は内省するほど余裕はなかったのだ。彼は首をくねらせながら、わざとかと思うくらい気持ち悪く、挙動不審に周りを見渡した。誰もいないことを確認すると、ゆっくりと封筒の口を開いた。中には二つ折りの紙が入っている。震える指でめくると、次のように書いてあった。
"前略
あなたにお伝えしたいことがあります。
良ければ今日の放課後、北校舎の屋上まで来てください。
               鐵 蓮子"
極端な感情は脳の機能を弱らせる。とある生徒によるとこの時刻に靴箱のほうから奇声が聞こえたというが、一色はは聞いた覚えがなかった。彼が出していたからだ。それどころか、彼はあのあとどんな気持ちで教室に入ったのかなどという細かいことはもちろん、その日の授業の内容は全て覚えていない。彼の体内時計で三分ほどすると、放課後がやってきた。



午後四時三十分。
「あー、トウ…俺先に帰るから、寮のオバチャン怒らせへん程度の時間には帰ってきーや…?」
「ああ、もちろんだよ」
邪魔者は消えた。俺は北校舎まで全速力で走っていき、最上階までの階段を駆け上がる。屋上までの階段はとても長いと有名なのに、息切れ一つせず登り切った。屋上のドアに手をかけて、自分の顔が緩みきっていることに気づく。自分の腹を思いっきりつねったが、なぜかあまり痛く感じなかった。もしかしてこれは夢なのか? 頭を壁に打ち付け、初めて自分は自分が正気の沙汰ではないことに気づき、真顔になった。
屋上のドアは金属が擦れ合う音を出して開いた。
まず見えたのは手紙の主の背中。風は彼女の長く綺麗な髪を持ち上げ、その隙間から夕日の眩い光が俺の目を刺す。昨日の、謎の女性だ。
彼女は音にドアの音に反応して大きくこちらに振り返る。
「一色くんだな」
彼女のぶっきらぼうな口調は気にならなかった。彼女の声は凛としていて、俺の耳に何度も響いた。
「はっ、はいそうです」
「私は二年生の鐵くろがね 蓮子はすこだ。昨日のことについてだ」
「き、昨日のこと…ですか」
「すまなかった。不良の同類扱いした上に驚かせてしまった」
「いや、いえ、いいんですよ別に、あの状況で勝手に失神したのは俺のほうだし」
「…そうか、ならよかった」
そう言って彼女は屋上のドアに……あれ?
「あの、もしかして話って終わりですか」
「そうだ。すまない、こんなことでわざわざ呼び出して」
彼女は屋上のドアに手をかけた。
「ちょっと待って下さい!」
そういう要件じゃないのはわかった。あれはラブレターでもなく、ただ呼び出しただけだったと十分わかった。でも、俺はさっき気づいた。彼女の髪に目を奪われるのも、昨日どうしてか後を追ってしまったのも、ある理由があったからだ。
俺はそれを伝える義務がある。
会ったのはたった二回目だ。だから何だ。回数に意味はない。
「好きです! 宜しければ、付き合ってください!」
風の音は消え、屋上は静寂に包まれた。



午後四時三十四分。
「駄目だ。私に近づくな」
彼女は振り返りもせずに静かにそう告げた。
極端な感情は脳の機能を弱らせる。



「ただいまー、ちょっと回り道してたら遅くなったわー。ついでにおやつ買ってきたでー。トウ?」
『Bonus time!!』
「トウ? いるやんな」
『Wow,head shot!』
「黙ってゲームしてんの怖いし返事してくれへんか?」
「…」
「昼間あんだけ明るかったのに何があってん」
『PAUSE!』
手元のコントローラーは消えていた。
「ほら、こっち見いや」
阪田は珍しく悲しく、心配そうな顔で俺をのぞきこんでいた。
「何があったんや、話してみ」
その一言で俺の感情をせき止めるものがなくなった。そして熱心に忘れようとしていた記憶が今更ながら頭の中に次々と思い浮かんだ。不安ながら告白して、それから。俺は自暴自棄になって自らの殻に閉じこもった。ひたすら悲しかった。そうして何時間かたち、自分の思考が無に満たされ、壊れてしまいそうになったころ、阪田がやってきた。話す相手がいるんだ。悲愴と安堵の追憶を終わり、視点を元に戻すと、まったく他人ごとのようだが。
俺は阪田の肩を借りて号泣していた。



時計の短針と長針が一直線上に並ぶ。時刻は午後六時。胡桃が眠気を感じ始めるころだ。宿題を一通り終わらせ、大きく伸びをしたとき電話が震えた。
-クロガネ ハスコ-
先程までの気の抜けた顔とは一転、その名前を目にすると途端に眉をひそめた。
「あーあ、また面倒事かあ、こんな時間に……」
独り言でも愚痴を言いたい気持ちは抑え、相手を待たせないように早めにとる。彼女なりの礼儀だ。
「はいはい、どうしたの? また誰か気絶させたとか?」
「落ち込ませてしまった…」
どうやら大事ではないようだ。そうわかっても、眉間のしわは深くなる。人の複雑な心情が絡みあう、面倒な事態であることを彼女はすぐに察した。
「悪いんだけどさすがに目的語がないと何いってんのかわかんないわ。何が聞きたいの?」
「告白ってどう断るべきだったんだ」
「え? あんた告白されたの。へー、目つき悪いから怖がられてばっかのあんたがねえ。で、なんて言ったのよ」
「私の周りにいると危険だから駄目だ、巻き込まれないように近づくなって」
「あんたねえ、それ告白の断り方としてどうなのよ」
「やっぱり駄目か」
「相手はあんたのことが好きで告白してるんだからそんなの気にしないに決まってんでしょ。
で? なんか言ってたでしょ?」
「いや、何も…」
「あっちゃー。あんた小声で話してた?」
「かもしれない」
「それ多分前半聞き取れてないわ。フォロー入れといてあげるから相手の名前教えて」
「一色塔だ」
一色塔。鐵が昨日気絶させた男性。一年一組名簿番号三番。偏差値52程度。松子寮所属、クラスでは未だ友達を作れていない。阪田恭一を除いて。
だが、問題はそこではない。
能力適性A。
放置すると"能力"が暴走する危険性がある。
「…私用事できたから切るね」
「ああ」
胡桃は中断された伸びをやりきった後、出かける準備を始めた。
「一色塔。つくづく手間がかかる…」



感情というのは、吐き出せば案外元通りになるのも早いようだ。俺は大号泣した直後だというのに、阪田なりの慰めがうるさく感じ始めていた。
「で、ストレスをゲームにぶつけてた、と。お前寮まで持ってきてたんやな。知らんかったわ」
「まあな」
「なんやったっけ? 題名忘れたけどお前がランキング世界10位以内に入ったとか言ってたやつやんな?」
よし、話がそれてきた。恋愛関係の話がそろそろ恥ずかしくなってきたころだ。このまま全然関係ない話に誘導しよう。
「トランスポーテーション」
「うっわ懐かしいなー。あんねんやったら今度対戦しようや」
「いいぞ、お前ワープ下手だからハンデつけてやろうか?」
「ええわ、そんなん。そや、ハンデで思い出したけどお前の性格からして告白しても他の人と比べてハンデあると昔から思ってたんやんなー」
無理やり話を戻された。
「お前恋とかに興味ないんやとおもってたけどなあ」
「いいだろ別に」
「よくラブコメの漫画で、告白されたら意識し始めて…とかってあるやん?」
「…ああ」
「あるかもよ?」
「ないな」
「なんでーな、そうやって諦めてるからあかんねんて」
「考えてもみろよ、偶然出会ってそこからもう一回会いに来たときに告白されたらドン引きだろ」
「わかっててやってたん?」
「あのときは冷静さを失ってたんだよ」
こいつは真剣な相談をされていても、揚げ足取りをやめる気はないようだ。こう淡々と第三者の意見を聞かされると、自分が恥ずかしく思えてくる。とにかく、辛くはなくなったからあとは阪田を適当にあしらおう。
「それなら相当熱い恋やな。もう一回告白してみいひんの?」
「もう未練はないからするつもりはない」
「諦めんのはまだ早いって」
「俺はもう諦めたんだよ」
「でも偶然出会ってそこから告白やろ? なんか運命的やんか。そういうの女子弱いって聞くで」
「俺はそんな典型的な女性じゃなかったから惚れたんだよ」
「ほら、やっぱ諦めきれてないんやん。もう一回言ったらチャンスあんのちゃう?」
一回惚れて、それでふられてすぐに諦められるわけないだろ。立場上そう言っておきたいんだよ。深く聞いてほしくないところを、しっかりしつこく執拗に質問してくる。どうやったらこの無限質問地獄から逃げ出せるんだ。
「ないって。あれだけ強く拒絶されたんだ」
「いや、聞き間違いとかもしれへん」
そうだったらどれだけ嬉しいか。でも、あの距離で聞き間違えるほど俺の耳は遠くなってない。
「ないない。それはない」
「私も聞き間違えだと思うわ。だってあの子声小さいからね」
さりげなく混ざってきた聞き慣れない声。見慣れないその女性は、何もなかった場所に音もなく来ていた。
「うおわっ、誰ですか何で、っていうかどうやって」
「いやー、偶然面白そうな話が聞こえてきたから」
「偶然ってここ男子寮ですよ!?」
「冗談よ、私は君たちの先輩で二年生の胡桃くるみ 美佳みかよ。宜しくね、一色君とその愉快な友人さん」
くるみ。相当変わった苗字だ。まあ鐵もそうそういないだろうが。
「どうして俺の名前を知ってるんですか」
「なんで俺だけ苗字呼ばへんねん。っていうか俺らなんも悪いことしたわけでもないですし、なんで来たんですか」
「男子寮にまで入ってきて、俺の名前知ってるってことはやっぱり俺に用なんですよね」
「お、察しがいいね。嫌いじゃないよ、そういう人。私が今回来たのは、鐵 蓮子について聞きたいことがあったから、ね」
なるほど、それで『面白そうな話』ってこれのことか。
「まさか色恋沙汰の噂を確認しにきたとか言いませんよね」
「あはは、そりゃないわね。私そんなどうでもいいことには興味ないの」
「じゃあなんで」
「彼女はね、私の親友なの。ちょっとそのことについて相談を受けてね。仲裁してあげようっていうこと」
「へー、トウ、よかったやん。ワンチャンあるんちゃう?」
「だからキミ…阪田君には用はないの。ちょっと内密にお話したいから一色君借りていってもいいかしら?」
「えー、話聞けへんのか。まあ残念やけど、親友が落ち込んだままなんを見るの辛いしな、パパっと解決してきてください」
残念とはいいながら、口元を見ると嘲るようににやにやしているのがわかる。
「それじゃ、一色君。ちょっと個人情報入るから屋上まで行きましょう」
胡桃先輩は強引に俺の腕を掴んで連れて行く。阪田にだけ許可をとって俺のはいらないらしい。
「トウ、がんば」
阪田は右手の親指を立てて高く掲げた。
俺は黙って左手の親指を下向きに立てた。
学生寮の屋上は結構広い。聞くところによるとテニスコートぐらいなら作れる広さだと聞いた。しかし、いつもは転落事故を防ぐために入れないようにしている。過去に馬鹿なことをした人がいたようで、入り口には不相応なほど大きい南京錠がついている。柵をつければすむ話ではないか、と寮長に聞いたが財政のややこしい問題があるらしい。
まあ、そういうわけで屋上、というのは屋上に続く階段だと思っていたわけだ。
「さ、開いたわよ」
この人はなぜ鍵を持っているんだ。
鍵は寮長が持っているはずだから、許可をとってわざわざ借りたということか?
ただ仲裁するためだけに?
だが鍵を借りるのにも理由は説明しなければならない。あの適当そうなオバサンでも、色恋沙汰の話をするため、なんていう理由で貸さないだろう。俺だったら外に行ってしてこいと言う。もしかして、さっきの話は俺を連れ出すために言っただけで、俺はこれから思っていたよりも大事な話をされるんだろうか?
「うわー、風すごいわねー」
屋上は思ったよりも冷えていた。風の音もあり、話をするのに少し不向きな気がするが……
「まあ、これなら盗み聞きされてても聞こえようがないわね」
どうやら彼女にとっては都合がいいようだ。
「それで、なんですか。短くまとめてくださいよ」
「話が早くて助かるわー。話すことは二つ。まず一つ目は、君は聞き間違えをしていて、鐵は拒絶するつもりで言ったんじゃないってこと」
「さっき『思う』って言ってませんでしたか」
「あー、あれウソ。阪田クンがいたから断定はしなかったんだけど、本当は本人から電話で聞いたの。で、君が話してた内容と食い違ってたからね」
春がきた。俺の時代は終わってなかった。
「そうですか、安心しました」
「安心っていうよりも嬉しそうね」
顔に出てたか。
「気のせいです、決して嬉しがってません。話をもどしましょう。本当はどう言ってたんですか」
「ま、内容は自分で聞きに行きなさい。また勘違いとかあったら笑い事だからね」
両手を上げ、首をわざとらしく振る。そしてその動きのまま胡桃さんは俺に背を向けて歩き出した。
「それで、二つ目。実はこっちのほうが大事で、阪田クンに知られたくないことでもあるの」
きた。やっぱりだ。
「阪田に? あいつ何かしたんですか」
「あー、ごめんごめん、そういうことじゃないの。阪田クンは一般人だからこのことは知らないほうがいいってこと。でも君には才能がある。だから話すの」
「何を言ってるのか全然わからないんですが」
本気なのか冗談なのか。顔が見えないからそれはわからなかった。でも、自分の抜けきっていない中二病の部分に強く反応するような話し方で、いつのまにか俺はその雰囲気に飲まれていた。
胡桃さんは屋上の煙突の目の前で立ち止まった。
「君は超能力って信じるかな?」
超能力。その単語だけで少しわくわくしてしまう自分がいる。が、中二病は隠して高校デビューするつもりなんだ。あんまり過剰に反応するのはよくない。
「何を馬鹿なことを言ってるんですか。あるわけないじゃないですか」
そうだ。超能力なんてない。ないんだ。あれは中学時代の幻想だ。
それを聞いて、胡桃さんは振り返ってにやりと口を曲げ、そしてこう告げる。
「ある、って言ったら?」
風が強く、距離もあるのに声は不思議ときれいに聞き取れる。
「別に言うだけなら簡単ですからね。なにか確信できるような証拠を出して貰わないと信じられません」
「そっかー」
なにかつまらなさそうな顔をしている。どういう返答を期待していたんだろうか。
次の声は耳元から聞こえた。
「じゃあこれでどう?」
さっきまでいた場所に人影はない。
振り返って目の前にいたのは紛れも無く胡桃さんだった。
「これなら信じてくれるかな」
どうやってあの距離を一瞬で移動した? さっきからここまでは10mはある。どうやっても移動時間は一秒以上かかる。全速力で走っても、紐で強く引きずられても、この距離を移動するのはあの一瞬では無理だ。
双子? そんな馬鹿な。そうだとしても、じゃあ一人目の胡桃さんはどこに消えた?
様々な仮説が頭に浮かぶ。鏡を使っていたとか、投影機で映しだされた映像だったとか、床のタイルが外れるようになっていたとか。だが、俺一人に奇術を見せるためだけにこんなしかけを使うか?
いや、仮に常識はずれの速度で移動する方法があったとしても、どれだけ俺の目が悪かったとしても、矛盾する点が一つある。
音がなかった。僕の近くの地面を踏む音さえも。
さっき阪田と話していたゲームでは、耳が良くないと敵の気配を察知できない。自分でいうのも何だが、俺の耳はいいはずなんだ。特に足音については。だから聞こえないというのはあり得ない。あり得ないはずなんだ。
いや…でも…
胡桃さんは、さっきまでとは違う、悪魔のような笑みを浮かべた。
「なにかタネがあるんじゃないかって疑ってる? 皮肉みたいよね、キミが昔何の根拠もなく信じこんだものを、今キミは何の根拠もなく否定しようとしている」
どうして昔のことを…? 胡桃なんていう苗字の先輩はいなかったはずだ。
「びっくりしてる? 別にキミと同じ中学行ってたわけじゃないわよ。これも超能力よ。信じる気がないのなら調査したとでも思っておけばいいけど」
「いや、でも、超能力なんてただの嘘で、何かタネがあるものじゃ…」
「だから今、そうじゃないものを見せたのよ。ま、最初から簡単に信じてもらえるとは思ってないからね、一つゲームをしましょう。普通ならキミが勝つはずのゲームを、ね」
信じてもらうためにゲームで勝負、というのは何か胡散臭い気もするが、ゲーマーの一人として、この勝負は受けなければならないだろう。
「わかりました、やりましょう。それに勝ったらどうなるんですか」
「そうねー、キミに友達ができるように情報操作してあげるわ」
「確かに困ってるのは事実ですが、そこまでしてほしくありません」
「キミが負けたら、今までの話を信じてもらう……のと、なんか全然信用されてなくていらつくから学校中にキミの中二病の語録をばらまくわ」
「やっぱりやめましょう」
「棄権は負けとみなすけどいい?」
「やっぱりがんばります」
負けなければいいんだ。
「そうこなくっちゃね。ルールは単純。キミ、部屋の鍵は持ってるよね?」
「はい、持ってますが……これ壊れるかもしれないゲームは嫌ですよ」
「そんな乱暴なことはしないわよ。私が一分数えるから、その間にそれ隠して。今五時五十七分だから……六時になるまでに私がそれを見つけたら私の勝ち。どう、キミに有利でしょ?」
「すごいシンプルですね」
「わかりやすいでしょ? ルールはさっきいったやつだけだから、あれさえ破らなければどんなことしてもいいよ。別に自分の体に隠してもいい。がんばって私の想像のつかないようなことをしてね」
「なんか怪しいです。先輩、スペアキーとか持ってるんじゃないですか?」
「怪しむなら印付けてもいいよ。はい、水性ペン」
あっさりと渡してもらったことに驚きつつも、独特な字形で自分の名前を書く。これなら真似しようがないだろう。
「このとおり俺の名前が書いてあるんで、それ探してください」
「了解。もう五十八分になっちゃったし、一分数えるよ」
胡桃さんはこちらに背をむけて、一秒一秒正確に数えていく。数え終わってから探す時間は一分しかないというのに焦る様子は全く無い。
俺は極力足音をたてないようにして、真っ直ぐと目的地へと向かう。先輩がどんな方法を使っているのかは知らないが、寮の中に隠しカメラを用意しているぐらいは覚悟しておかなければならない。なら、隠す方針は簡単。場所がわかっても一分以内に探し出せない場所にする。そして、俺が一分以内に隠せる場所。該当する場所は一つあった。
俺は、屋上の端に立ち、鍵を思いっきり寮の外に投げた。
ルールさえ守れば何をしてもいい。その言葉を聞いて安心した。別に俺がどこにあるか把握する必要はないんだ。後で探すのは大変だろうが、こっちは高校生活がかかってるんだ。なんでもする。
見える場所にないことを確認してから戻ると数え終わるころだった。
「五十九、六十。隠し終わった?」
「急いで探さないと、あと一分しかないですよ」
急いでも無理なことをわかっていて言う。
「本当に隠した?」
「さっき言っていたルールに従って、ちゃんと隠しましたよ」
俺は少し得意げになってそう言った。勝ちを確信していた。しかし、胡桃さんはその俺の顔を見た上で哀れむような顔を見せた。演技ではない、そうわかった瞬間に俺が勝ったつもりでいたのが間違いに思えた。俺は確かにあの鍵を投げて、それは寮近くの茂みに入ったはずだ。そう自分の記憶の中で確認がとれても、確信ができなかった。
「じゃあこれは?」
金属が擦れる音をさせて、胡桃さんが後ろに回していた手を俺のほうに見せる。その手に握られていた"何か"を俺のほうに投げた。
鍵だ。間違いない。そして、裏返すとそこには見覚えのある形でこう書かれていた。
一色 塔
驚く俺の顔を胡桃さんはどんなふうに見ていたんだろうか。鍵を見つめるしかなかった俺には、静かながらも甲高い笑い声が聞こえた。


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