クロイロ

四月八日午後六時。
小道は思っていたよりも長かった。しかし、小道を進み終えてからはもっと長い道のりが続くとは思ってもいなかった。小道の終端には住宅街でもなく、隠された秘密都市でもなく、ただただ広い草原が広がっている。空は深い藍色になって、月の色を際立たせている。風がふくと、草はたゆみ、爽やかな音を出す。草原に来たことは生まれてから一度もなかったはずなのに、それでも俺はその草原をどこかで見たことがあるような既視感を覚えていた。きっと本で読んだとかだろう。昔読んだ絵本を順に思い出そうとしながら、俺は特になにをするわけでもなく草原を彷徨っていた。一緒に山桜もあったはずだ、そんなことをなんとなく思い出していた。その記憶はどうやら今の現実と何か関係があるようで、まばらに生えている山桜を見つけた。どういう原理か、桜は闇夜にあるはずなのに光に照らされているように輝いている。そして、奇遇にもその中に彼女の黒い髪を見つけることになる。



episode 2
月の下で



山桜に囲まれて数人の男たちとさっきの女性が対峙していた。確かにあの時の彼女だったが雰囲気はまるで違っていた。怒り、憎しみ、負の感情がその鋭い目から読み取れる。
対して男たちのほうは彼女を嘲笑しているようだった。俺はそこから遠い場所にいたが、何を言っているのかは聞き取れた。
「約束通りちゃんと一人で来たみたいだ、ヤツに伝えろ」
リーダーだと思われる男がそう言うと、隣の男が電話を取り出した。
「人質は用済みだ、逃がしてやれ――ああ、そうだ」
「トモダチは解放した。これで文句ねえよな」
「わかってると思うけどお前は逃さねえからな」
「ほら、囲め」
リーダーの指示に従って男たちは隠し持っていた各々の武器を構える。金属製のバット、鉄パイプ、メリケンサック。ただただ現実的で暴力のために存在する武器だ。
非常に情けないことはわかっているつもりだが、俺はそれを見次第近くにあった木の陰に隠れた。あの場にいる誰にも気付かれないようにしながら、様子を見ていた。会話からして、彼女が相手にしているのは不良だろう。それも集団で、人質を用意するような力のある奴らだ。どう考えても俺が首をつっこんでいい問題じゃない。卑劣な悪漢には立ち向かうべきだという正義感は、いつのまにか消え失せてしまっていた。
「お前のトモダチって薄情らしいな、お前がわざわざ助けに来たっていうのに縄を解かれたらお前の心配なんてせずに逃げちまったらしいぜ。そんな奴でも守ってあげるなんていってヒーロー気取りもいいとこだよな」
「…」
彼女は黙っていたが、その顔は怒りに歪んでいった。そうして右手を近くの桜の幹についた。
「ほら、脱げよ。断ったらどうなるかわかってんだろ? 久々に上玉だからな、楽しめそうだぜ」
返事はなかった。彼女の右手は桜の幹を強く掴み、そしてそのまま上に引き上げた。紛れも無く彼女は桜の木を道具なしで、素手で持ち上げていた。
冗談じゃない。桜の木なんて、重機を使ってやっと引き抜くものだ。一体何トンあると思ってる。しかもそれを片手で持つ握力。指が幹にめり込んでいるのが見える。人の頭など簡単に握りつぶしてしまうだろう。
下品な笑みを浮かべる不良たちの表情は途端に凍りつく。
「なあ…あれどういうことだ」
「見間違いじゃないよな」
そしてその持った桜の木をリーダーの足元へと投げつけた。地響きと共に尋常でない量の砂埃が立つ。
不良は全員動かない。今見ているものが現実だと信じきれないために、リーダーの指示に逆らえないでいる。しかし、それが現実であろうとなかろうと、恐怖というのは何よりも優先されるものだ。
「う、うわあああ」
誰かが恐怖の信号を発すると、それは瞬く間に伝染していった。不良の大半はその場から逃げ出した。何人かは足すら動かなくなってしまったようだ。中には他の人を蹴飛ばして囮にしようと画策している人もいた。しかし、現実は理想通りにはいかない。彼女は脚力までもが異常だった。不良たちは次から次へと捕まり、気絶させられていく。
最後に残ったのは不良たちのリーダーだ。さっきの衝撃で足は動かなくなっているようだった。彼女は一歩ずつ、歩みを進めていく。
「たすけ…て、助けてください、おねがいです、お願いします、どうか殺さないで、なんでもしますから」
彼女は何も言わず左手で頭を掴み、軽々と持ち上げた。
「あ…あ、お願いです、さっきのはあやまりますから、どうか、あ…」
不良は呼吸がだんだんと荒くなっていく。
彼女は右手を不良の顔の前に据えた。
「はーあっ、はーあっ」
不良の手はぶらりと垂れ下がった。
それに気づいたのか、何もせずに左手を離した。そうして彼女の顔はこちらを向い…
俺は全力で木の陰に隠れた。
ばれてない、ばれてないよな。
自分の呼吸もだんだんと荒くなっていった。手で必死に抑えるが、その音は嫌でも漏れてくる。
たった数秒の沈黙なはずなのに、体内時計はその時間を何百倍も長く記録している。

だんだんと呼吸が落ち着いてきたころ、真後ろから土が踏み固められる音がした。俺は、それを聞いて動けなくなった。背後からこう囁く声が聞こえた。
「お前も仲間か」


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